今頃になってから気づいたけど

躁と鬱の間をふらふらしながら、音楽聴いたり読書したりアニメ見たり。

オレンジコートの話。

フジロックの記事がホットエントリーになっているので読んでみた。今年、声高に叫ばれていた「フジロックの変化」そのひとつとなったオレンジコートの廃止。長く書くと論理が破綻するので簡潔に。

前提として私は元々オレンジコートの住人ではない。深い深い思い入れなんかも特にない。そんなフジロック中毒の人の、今年現地で感じたことのひとつと思って頂ければ。

何もなくなってただの通り道となったオレンジコート。
土曜の夜は焚き火をして、大きな火を前に数時間居座った。(夫は着火の頃にそこにいたので、その話を聞いて)

ステージがひとつなくなるというのはどれだけ大きなことかと身構えて来てみたけど、思うほどのことはなかった。それはマイナス方向に変わるんじゃないかという恐怖に対して。

何もないオレンジでも、椅子に座り思い思いに過ごす人はいて、焚き火の夜は誰かが歌い出したり、スタッフの呼び掛けで焚き木を運んだり、なんだかステージの代わりになるような空間がそこには意図せず出来上がっていて「進化する」ってこういうことなのかと感じた。

進化論で言えば海から陸に上がったとき、生物はえら呼吸が出来なくなった。
とどまらないということは、それまであった何かを失って新しい何かを得るということなんだろう。

フジロックが大きく変わろうとしてるのは今年の様々なことで感じた。
ホットエントリーの言葉を借りるのなら、「ジャンルを潰すマニア」たるフジロッカーが、その変わろうとしている運営側に抗うことで今年のオレンジのような空間へと進化するのかな、と思った。

フジロックの魅力は運営側が最高限まで意図しているわけではなく
それぞれの人にとっての「魅力」がその場所でより引き立てられているからで、その魅力を手放さず参加することであの空間が生まれるのかなと。

運営側に意図して作られたステージ(空間、立地)で感動する側から、自分たちで魅力あるステージを作る側へと変わったのかもしれない。変えさせられたのかも。

もちろんマイナス面も味わった。
あんなに混んでるヘブンは天国じゃないし、いくら最混雑年より人は減ったと言っても1ステージなくなると各所の混雑はひどくなった。

音楽的な幅のようなことで言うなら先述の記事に全く同意見で。
間口を広げても奥行きがなければ、いわゆる「フジロッカー」は世代交代できない、と思う。

都会で、生活で、ラジオやテレビ、動画サイトから垂れ流されるような音楽ではなく、
自分から手を伸ばさないと聴けないような音楽に生で出会えるというのがフジロックの魅力だと思うなぁ。レーベンなんてその最たるもののような。

それでも、もはやフジロックってただの「音楽を聴きに来る場所」ではないわけで。日本ではあまり類を見ない「アウトドア色」の強い場所。

音楽を聴く、というインドア趣味が、
フジロックに来ることでアウトドアになっていく。その過程にワクワクしたひともきっといる。そういう側面において、焚き火は効果的だったと思う。大将が朝霧jam化を狙ってるのかもね?


何が言いたいかというと焚き火来年もお願いします。