今頃になってから気づいたけど

躁と鬱の間をふらふらしながら、音楽聴いたり読書したりアニメ見たり。

酔っ払いの戯言は常に中二病

偉業やすごい記録や世紀の大発見を遺して逝った偉人は数知れず。素直にすごいと感じるし羨ましくもあるし同じ人類として誇りに思うこともある。

けど、自分はどうなりたいかと言われたら。

「他の人とは違う」なんて幻想はとうに諦めた。所詮はくだらないことしか出来ない百万分の九百九十九の存在。

永遠に残る英雄にもあこがれるけど、所詮凡人の私には荷が重すぎる。世界中の貧困者を救うとか、遠い国の子どもを思うとか、やろうとは思っても自分の理想通りになんて出来ない。

でも、自分の目の前にいる人が困った時には手を差し伸べられる人でありたい。損得や利益は考えず。その子どもが笑ってくれるなら、その瞬間は全てその子に捧げてもいいと思う。そういう考え方には、あきらめを付けたくない。


ブルハを好きなのはパンクだとかの前に生死の価値観が貫かれてるからかもしれないと思う。生きることに執着するのはみっともない、けど死ねって言われたら悔しくてムカつくから生きてやるし、死にたくないけど死ぬかもしれないことになったら清々しく笑って死にたい。

全部、自分の選択の末に存在して欲しい。誰のせいでもなく、死ぬのも生きるのも辛いのも幸せなのも、全ては自分が選んだ先に在って欲しい。誰かや何かのせいにしたくない。他人に期待するという選択の先に裏切られたという事実が存在するのであって、それは選んだ自分の責任。

最近読んだモバマガのインタビューでたくろーさんの言っていたようなことの模倣である。やっぱり彼はブレない。道標。だから好きだし、だから追うし、だから追いつけない。人生かけてその背中だけしか見つめられない人。

信じるも信じないも、期待するもしないも、その結果裏切られたと感じるも感じないも、全ては自分の選んだあみだくじの先のこと。それで誰かを恨んだり?キレたり?笑っちゃう、逆切れもいいとこだ。悪いのは自分だ、自分の納得行く結果が出なかったら、それは経過がどうであれ自分の責任であり、もし誰かがその決定に深く関わっていても、その関わりを許した自分の結果。

それを全部否定して「アイツのせい」と主張するなら、それは「私はあいつの操り人形で私の意志と選択は一切意味を成しませんでした」と宣言するようなもの。人生の大事なことをそんな風に言うのは死んでも嫌だ。

例えばこの結婚や今の生活をいつか否定して後悔する時が来たとしても、「結婚をすると決めたのは自分」でしょ?なら、責めるべきはその時の自分だけ。殺してしまいたいほど過去の自分を恨む時があっても、その対象はあくまで自分であって他のだれでもない。殺したいなら、その時の選択の結果として存在する今の自分を殺すべきだ。

だから、辛いことも嫌なこともたくさんあったこの数十年間でも、後悔はあんまりしてない。反省はしてるけど。例えばあの時に戻って選択をし直せると言われても、私はまた同じ道を選んで、また同じ辛い思いをする。それでいいなんて言えるほど過去の事にはならないけど、他の道は今でも思いつかない。



ひとつだけ選べないと思うのは、どんな親のもとに生まれるか。だから、親の呪縛からは多分ずっと逃れられない。自分で選ばなかった事実の結果だから。

でも、親だって子どもを選べない。だから、痛み分けだと思う。大人になる意味は、それをわかることだと思う。




皆様のご想像の通り酔っ払っております。お酒なくなったから買ってくるね(アル中間際)