今頃になってから気づいたけど

躁と鬱の間をふらふらしながら、音楽聴いたり読書したりアニメ見たり。

ネット・ゲームの問題

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NPO法人 あそび環境Museum アフタフ・バーバン

アフタフ・バーバンの北崎くんの講演会を聞いてきました。ネット・ゲームの問題と子どもについて。論点は限りなく存在して深く、私は全く詳しくないのでそれは置いといて。

北崎くんの訴えていた言葉が「本当に私そのものだったこと」に驚いた。

「ネット・ゲーム依存=ネット・ゲーム大好き、つまり、現実嫌い、現実離れ」
「大して楽しいこともないのに大変なことだけある現実より、楽な世界のほうがよっぽど良い」
「そうやって現実を諦めていく子どもが、自殺したり、人を殺してしまうのではないか」

根底にあるのは、「寂しい」気持ち。
「寂しさを埋めてくれるから」現実よりネットやゲームを好きになる。

ネット依存にも(多分)なったことのない北崎くんが、よく代弁できたなーと、勉強の素晴らしさを感じた(笑)瞬間。

私は10歳でネットを手に入れてからずっと未だに精神的依存してるのだけど、「そもそもなぜ」依存しているかっていうと、楽しいからでも楽だからでも刺激的だからでもなく(その面もあるけど)「寂しさを埋める手段」だからなんだと思う。親や友達や学校では埋まらない寂しさが、ネットで埋められた。現実では誰も向き合ってくれない私に、画面の向こうの誰かは向き合って話を聞いてくれた。だから依存してる。だからやめられない。それが本当か嘘かなんてどうでもいい。ロリコンのおっさんでも別に構わない。だってその人は私を見てくれている。
だれも見てくれない現実の「世界」を「諦めて」いく、ふっとした瞬間に「ああもう現実世界要らないや、死んじゃおう」となる。至極当然で、自然な流れ。

だから北崎くんの言っていることがすごいと思った。

「こんなに便利なものを、生まれた時から当たり前に知っている世代に、一切使うなとは言えない。家庭の事情もある。子どもの事情もある。じゃあどうすればいいのか。こっちの世界にも面白いことはあると伝えれば良い。あなたが必要だと伝えればいい。戻ってこられるように環境を作れば良い。それができるのは、便利なものが無かった時代を知ってる大人のちから。」

正直この手の話は「ネットの人間関係なんて偽物だ!」とか「一日○時間なら平気だ!」とか言い出すんだろうと思ってたんだけど、そうじゃないことをわかってる目線で話してくれたのはとても素晴らしかったし、叶うなら高校生の自分に聞かせてやりたかった。誰も口にしないけど周りの大人はみんな君のことを「この世界で必要だと思ってる」のだって。今の年齢になればそんなことは当たり前だと感じられるけど、思春期はそうじゃなかった。大人の当たり前はこどもの当たり前じゃない。必要としてる言葉があるなら何百回でも言ってあげれば良い。

依存の問題は本当に難しい。「大好きな何かがひとつあれば生きていける」と思えば「でもそれを失ったら一緒に死んでもいいと考えてる」だったり、「現実で本当にわかってくれる人が一人いれば大丈夫」だけど「現実で出会えなくてもWWWのどこかで出会えたら、救えるかもしれない」だったり。ネットの良さも悪さも知ってるから、一切やめろともどんどんやれとも言えない。そういう立場の自分が言えるのは「現実だって悪くないよ、楽しいよ、楽しいこと作るから一緒に遊ぼう」くらいなんだろうなと思った。

こどもって、自分が必要とされてないって感じたら、軽々しく死んじゃうよ。

だいたい同じ思いを持ってた北崎くんが、こうやって活動しているのを見ると励まされるし、自分にも何かできないかなと考える。考えて、焦って、苛ついて、病状悪化(笑)だから劇場やっちゃダメって言われるんだよ…。

「楽しい」と「楽」は同じ漢字だけど違う意味だなぁってヒロトが言っていた。その通りで、楽なもので溢れた現実世界ってまったく「楽しくない」から、画面の向こうが楽しい。でも現実にも楽しいことはあって、それは面倒で大変なことだけど、やっぱ楽しいんだと思う。フジロックでのキャンプなんて「不便を楽しむ」ために行ってるところであるわけで。雨は降るわ、風は吹くわ、濡れるわ、乾かないわ、泥だらけだわ、眠いわ、もう便利なことなんて懐中電灯くらいしかないwのに、それすらとっても楽しいから毎年通う。やっぱり「楽しい事って面倒なこと」なんだと思う。

それを知らない子どもたちは簡単に世界を諦めるから、伝えないといけない。しぶとく。
劇場なんて人手とお金と時間がかかって結果はすぐに出ないという「面倒なことオンパレード」だけど、「やっぱりそれは楽しい」んだ。

アフタフ・バーバン素晴らしいなー。また忍者遊びしたい。